私に再び書く勇気を与えたこの映画について、[MY CINEMA DIARY]
http://eigadaisuki.seesaa.net/に書いた日記を載せる。
======== 11月22日の映画日記 ====================

タケシの番組で、今明かされた世紀の大発見、というように扱われた[ダヴィンチ・コード]。
あれを見て、そんなこと昔から言われていたではないか、ともやもやとしたものを感じていた。でも[世間]がこぞって持ち上げるものに反論する気にもならず、本も読まなかった。
それが、このヴィデオを見たことで、気分がすっきりしたのだ。「ダ・ヴィンチ・コード」の著者ダン・ブラウンはこのヴィデオにも登場しているが、今までに出された多くの文献を参考にしている。
それらの著者たちが、思い思いに自説を繰り広げるだけの映画だが、たとえば、「レンヌ=ル=シャトーの謎」のヘンリー・リンカーン、「マグダラのマリアと聖杯」のマーガレット・スターバード、「マグダラとヨハネのミステリー」のリン・ピクネット等々。
このヴィデオを見れば、これらの本は読む必要は無い。少なくとも本好きではなく、絵と宗教から考えていこという図像学の立場の自分にとっては人の説をしっかりと読むことは危険だ。
よく外国の文献を訳して自説のようにしている有名人がいるが、ああはなりたくない。イタリア語だから他の人は読まないだろう、という考えではいけない。
私の嬉しかったのは、こういうことが「聖書をよく読めば誰にでも解る」と誰もが言っていたことだ。日本は発言に権威性を求めるが、誰にでも解ることなら私が書いても良いのだ。
そして、今までは[聖書に書かれたこと=当たり]と思っていたが、書かれなかったこと、消されたことの方に真実があると思っても良いのだという勇気をもらった。[歴史は権力者によって塗り替えられる]という法則がローマン・カトリックにも当てはまるのであった。
もしこの[ダヴィンチコード]が世紀の発見でないにせよ、なぜ今明かされたかというと、カトリックの力が低下して、自由に発言できるようになったからだろう。
マグダラのマリアの地位については死去した法王パウロのように徹底したアンチ・フェミニストには許せないものであっただろう。
しかし、ダヴィンチだけでなく、ダヴィンチ・コードのダン・ブラウンだけでなく、現代の絵画、映画の形で彼女の存在を訴えた人がいる。それは、[パッション]のメル・ギブソンだ。
あの映画はキリストの受難が酷すぎてカトリック教徒が激怒したというが、私は今日、わかったのである。カトリックが激怒したのは、マグダラのマリアを演じたモニカ・ベルッチの凛とした美しさと存在感だ。聖母マリアとマグダラのマリアはどう見ても嫁と姑にしか見えない。
私はカトリックは後から勉強したので、マリアの生涯については疑問だらけだった。5年前からはじめた[絵解き物語]では非難をおそれて、なんちゃって風にしか書けなかったことが、今なら書ける。
私は若いときロワール川のほとりの小さな城の横にダヴィンチの小さな記念館があるのを見て、あのイタリアの巨人がなぜこんなところにいるのだろう、と思った。そういう素朴な疑問が探求のはじめである。
それについての答えは[ダヴィンチ・コード」のメインである2つの[岩窟の聖母]にあったので、テレビで軽々しく扱わないでほしかった。どこの美術の本にでも書いてあるようなことを新発見!と騒がないでほしかった。
だから、今日はとても嬉しい。
posted by machilin at 09:29|
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